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徳川家康も失敗から学んだ成功への秘訣

徳川家康と言えば、江戸幕府を開き、今ではほとんどの日本人が知っている人物ですが、その徳川家康でさえ、数々の失敗を乗り越え、一時は国が無い状態から日本全土を天下に収めました。その3度の大きな失敗談から成功への秘訣を学んでいきましょう。

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①人質時代

これは家康の失敗では無いのだが、家康の父である松平広忠は今川家の恭順の証として息子の家康を今川家本城がある駿府に送ろうとしていた。

しかし敵対する織田家はその家康を人質として連れ去ってしまった。その間に父弘忠は謀反に会う。後に家康が今川家に戻った時は徳川の領土は無く、人質として駿府で過ごすしかなかった。

しかし、家康はその境遇に腐らずに、目の前のことに集中して武功を立てていった。そのおかげで桶狭間の戦いで先鋒として前線に出ていたため、織田軍と戦う事無く岡崎で独立を果たす。

 

②武田軍との激闘

三河と遠江を制した徳川家であったが、目の前に現れた大きな敵が武田信玄であった。武田家は将軍足利家の呼びかけに応じ、織田が統治する京都を目指し、徳川家の領土に攻め入った。

序盤から武田信玄のペースで戦が進んでいき、徳川家康は本拠地の浜松城に籠っていた。武田は浜松を攻めずに、そのまま西に向かっていったため、無視されたと逆上した家康は攻撃を指示。

周囲の制止を無視して逆に信玄の待ち伏せに合い、命からがら浜松城に逃げ帰った。この戦いで1000人以上の味方を失った徳川家。家康はその悔しさを忘れぬように絵師に命じて、自分の絵を書かせ、一生この戦いを忘れなかったという。

 

③本能寺の変

本能寺の変が起こった時、家康は堺の町に宿泊していた。そして夜半に本能寺の変の情報を聞く。さすがに慌てる家康は周囲を顧みず泣いたという。

そして自らも命を絶とうとするが家臣の制止もあり思いとどまり、本拠地への帰還の策を巡らす。当時周辺の地域は明智家にお味方しそうな豪族がたくさんおり、帰還は困難かと思われたが、服部半蔵の助けで伊賀を通り、伊勢に出て船で本拠地に帰還している。

この成功の裏には、信長が伊賀の豪族や農民を無差別に攻撃した際に、その民達を家康が極秘裏に助けたため、その恩に報いるため、伊賀の人たちが家康を助けたという事がありました。これは計算して出来る事ではなく、家康の人柄がうかがえる出来事です。

 


 

④徳川家康の子孫

徳川家康は代々将軍を子孫に受け継がせており、倒幕するまでの間に実に15代も続きました。15代将軍の徳川慶喜が退位してからは、その子供である16代の徳川家達が養子として相続をして、明治政府から70万石の領地を与えられました。

徳川家康の子孫は今も健在で、尾張徳川家の末裔の尾張徳川家第22代当主、徳川義崇さんです。当時の名のある方々の現代の末裔をたどっていくのも興味深いですね。


このように家康は、失敗やピンチをチャンスに変えて飛躍してきました。現代社会でも失敗やピンチはたくさんあります。それをいかにチャンスや成功に結び付けるかは自分次第です。

歴史を振り返り、家康の行動を自分に置き換えて自分の経験として考えてみてみましょう。





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