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豊臣秀吉の生涯

豊臣秀吉は安土桃山時代の武将です。尾張国愛知郡中村(現在の愛知県名古屋市中村区)に貧しい農民の子として生まれたとありますが、諸説あり詳しい出自についてはよく分かっていません。

幼名は日吉丸、織田信長に仕えると木下藤吉郎から羽柴秀吉と改め、浅野長勝の娘寧々(ねね、一説には、おね、ねい)と結婚、近江長浜城の城主となります。本能寺の変で、主君、織田信長が明智光秀の謀反により殺されると、中国大返しを行った秀吉が山崎の戦いで明智光秀を討ち、織田信長の継承者「太閤」と呼ばれるようになりました。

秀吉は晩年、朝鮮出兵を企てますが、秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結となりました。

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出典:http://blog.livedoor.jp/king_terahigashi/archives/17755403.html

 

豊臣秀吉の墓

京都市東山区にある阿弥陀ヶ峰(あみだがみね)の山頂に、ひっそりと豊臣秀吉の墓「豊国廟(とよくにびょう)」はあります。標高196メートルの山頂の廟に行くには、およそ500段の長い階段を登らなければなりません。

慶長3年(1598)8月18日伏見城にて没すした秀吉に、朝廷から豊国大明神の神号を与えられ豊国廟に祭られました。享年63才、死因は脚気や胃がんなど諸説ありますが、遺体の調査は行なわれなかったので詳細は不明のままです。

豊国廟に祀られた遺品の中に、秀吉の歯が今でも大切に保管されています。後に調べたところ、秀吉の血液型はO型であることが判明したそうです。

 

豊臣秀吉の子孫

天下統一という大偉業を果たし多くの功績を残してきた豊臣秀吉ですが、女性好きとして知られ、多くの側室を寵愛しながらも子宝には恵まれませんでした。

秀吉57歳にしてようやく側室茶々の子、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)を授かるものの、その秀頼は大坂の陣で自害したと伝えられています。

豊臣家の血筋を引く秀頼の子供であった国松もわずか8才で処刑されてしまいます。秀頼が生まれる以前にも石松丸秀勝、鶴松という二人の子供がいたとされていますが、どちらも夭折(ようせつ)しています。

異父弟の豊臣秀長も病死、そのため豊臣秀吉の血を受け継ぐ男子はいなくなり、残念ながら子孫は絶えたと伝えられています。

 

豊臣秀吉の右手は6本指

前田利家の「国祖遺言」によれば、「大閤様ノ右之手オヤ由飛一つ多六御座候」という記述があり、「太閤様の右の手親指が一つ多く6本あった」と書かれています。

同様の記述は、ルイス・フロイスの「日本史」にもあることから、確かに6本あったのではないかと言われています。そう言われれば、有名な豊臣秀吉の肖像画も右手の親指を隠すように描かれていますね。

 

豊臣秀吉の人柄

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出典:http://onlygirl.blog.jp/tag/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

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ある冬の寒い日に織田信長の草履を懐で温めたという有名なエピソードがあるほど若き日の秀吉は世渡り上手なキレ者だったようです。織田信長が成し遂げられなかった天下統一を果たしたほどの秀吉は、自己顕示欲が強く、優れた人間観察力を持っていた人物だったに違いありません。

一方で、家族思いの秀吉は、母親や愛妻寧々を大切にした思いやりのあった性格で知られています。

 

豊臣秀吉の家紋

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豊臣秀吉の家紋が天下人に相応しい五七の桐(桐紋)であることは周知の事実です。桐紋は権威ある天皇家の紋章ですが、天正年間に豊臣秀吉は時の後陽成天皇から下賜されています。

秀吉が木下藤吉郎時代に使用していた家紋は、立ち沢瀉の紋ですが、羽柴秀吉と名を改めてからは同時に、丸に瓢箪紋や五三桐紋も使用していたようです。

 

豊臣秀吉と家臣

秀吉が天下統一事業を進めていくうちで何よりも苦労したのが家臣でした。代々の家臣がいない秀吉は、同じ村の出の加藤清正や福島正則を子供の頃から養育し家臣としました。

また、妻のねねの縁者である浅野や木下といったものを家臣としました。

領地が近江の長浜に移ってからは石田三成や大谷吉継など新たに家臣としました。ここに、豊臣秀吉の家臣団のもろさがありました。尾張時代の家臣団と近江時代の家臣団の仲が悪く、まとまっていたのも秀吉というカリスマがいたからこそであり、秀吉の死後、朝鮮から引き上げてきた、清正や正則などの武断派、三成、長束正家などの文治派の仲は最悪となっていました。

秀吉という男はワンマンで目標を達成するためには家臣の苦労などは考えない男でありましたが、同時に臆病な男でした。もっとも恐れたのは徳川家康で、自分の母親、妹まで人質に差し出して懐柔しようとしました。なお、家康は心から服従するつもりはなく、秀吉の死後豊臣家を専横し後に滅ぼすことになります。

秀吉の失敗は家康を恐れすぎて関東に押し込めたは良いものの、自由にさせて力を蓄えさせたことでしょう。家康は朝鮮にも出兵していません。家康の力を削ぐことができていれば関ヶ原の戦いは起こってないかもしれません。

しかし、世はまた乱れ、戦国の世に再突入していたでしょう。東北には伊達政宗、最上義光。九州には島津、黒田官兵衛などの野心を持った大名が数多くいました。

地方の大名に財力と軍事力を多く待たせたのも失敗と言えるでしょう。家康はその秀吉の政治を研究し、幕府に力を集約して法律をしっかり守らせ、破ると潰す、これを徹底することにより、幕府に逆らう家が出ないようにしました。

また、秀吉には子供が少なかったことも二代で滅んだ要因でしょう。早死するか、家督簒奪を恐れ一族ごと粛清しました。家康はその失敗をもとに分家を多く作り、主家に後継がいない場合には分家から出す制度を作りました。

秀吉の人生は、厚い人望と奇抜なアイデアにより天下人へと上り詰めた日本史上最大のサクセスストーリーと言えるでしょう。

しかし、優秀な後継に恵まれても、優秀な補佐役がいないと家を保つことができないということも豊臣家からは分かります。秀吉は後のことを家康や三成に託して亡くなりました。秀頼の立派な成長を願いながら。





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